ソウル留学の体験談
韓国の友人たち
前田時男は、学校が冬休みになっても日本には戻らなかった。今日の会合は何なのだろうか。誘われるまま金美叔の案内で喫茶店へ向かった。美叔は前田が日本語をときどき教える関係で、いろいろ前田の世話をやいてくれていた。
韓国の友人たちはえんえんと場所を変えながら会合を楽しむ。喫茶店に八人が集まった。いつものように次々にビールの栓が抜かれ、話しが弾む。斜め前の女性が前田時男と話したいと言っていると金美叔が言った。ほっそりした二十台後半の女性が厚手のグレイのコートを着たまま、ほほえみながら前田を見ていた。前田は声が届かないので席を変わった。李英子と名乗った女はだいぶ酒を飲んではいたが、ゆっくり区切って話すので、よく聞き取れる。小学校の教師だという。
<アトリエ>
みんなはまたどこかで飲み直すらしい。喫茶店をでると夜も更けている。冬のソウルは冷え込みがきつい。零下七度だと天気予報では告げていた。前田は李英子の手をとって歩いた。みんな着脹れして、頬を真っ赤にしている。道路にできた水たまりが凍っている。金美叔は太っているので転がるように皆に追い付いた。
李英子は金美叔と前田を誘って、呉哲の家へタクシーで向かった。呉哲の家の前の食料品店に入りウイスキーをしっかりと買い込んだ。
呉哲は画家で、アトリエを持っている。二階のアトリエには大きな墨絵が飾ってあった。三人を迎えて呉哲は筆や紙の散乱していた部屋を片付けた。早速宴会が始まった。
「前田さんはギターがとても上手ですよ。」美叔が言った。呉哲がすぐギターを出して来た。
「歌を一つお願いします。」前田は黄色いシャツを歌い。サランヘを皆で歌った。
李英子はウィスキーをがんがん飲んでいる。
「英子さんは酒が強いですね。」前田が飲みっぷりに関心する。
酒がまわってくると李英子は大胆になり、李哲にもたれかかって、前田が歌う曲に合わせて体でリズムをとっていたが、李哲ににじりより抱きつこうと両手をひろげた。李哲は逃げ腰である。追いすがる英子をうまくかわしている李哲の様子がおもしろくて笑った。
「英子は今、彼氏がいないから寂しいのよ。」美叔が前田に耳元で囁いた。
前田がさみしい歌を歌いだすと英子は「本当、何で」と言いながら前田ににじり寄って来た。「だって、一人で留学してるから」と前田がこたえると英子は困ったような顔で前田を見詰めた。
「冗談冗談、とっても楽しいよ。」前田は今にも泣きそうな顔の英子の手をとってなだめた。
「もっとお酒飲みなさいよ」英子は自分のグラスを前田の目の前に突き出した。
前田はいつの間にか酔って寝てしまったらしい。目をさますと李英子が一人で座っていた。
「朝早く仕事があるので金美叔は出かけていったよ。よろしく伝えといてだって」と李英子は言った。
そこへにこにこしながら部屋にもどってきた呉哲がレコードをかけると、李英子は前田に抱き付いて踊った。ひとしきり踊って2人が向き合って座ると、キスをしながら前田にのしかかってきた。前田は寝ころがり子猫のようにじゃれあった。
呉哲は威敬徳に連絡をとり、李英子と前田を伴って町へ出た。外は雨だった。前田と英子は一つの傘をさし、李英子はピッタリと寄り添った。信号で立ち止まると、英子は前田に抱き付いて濃厚なキスをくりかえした。前田は口が慣れて何も感じなくなっていたが。
威敬徳は奥さんを連れて地下鉄駅で待っていた。そのまま駅前の食堂に入りマッコリ(濁り酒)を飲み始めた。前田が辛いものは苦手と知ると威敬徳はとうがらしの入っていない料理をわざわざ注文して作らせた。
英子は学校でのできごとを話していた。生徒の親が豪華な贈物を持ってびっくりしたこと。学校給食が始まったこと。断片的に聞き取れる。前田の話しもしているようだったが、それは聞き取れなかった。みんなが前田を見る目付きが変わったようだった。
突然「日本人は辛いものが嫌いで、女が好きなんだ」と威敬徳がぐさりと言い放った。前田にしてみれば酔った勢いで抱き付かれ、面くらっているのは前田の方なのだ。
「前田さんは疲れているので帰って休むから、またね」食事が終わると呉哲は、李英子の肩をつかんで言いふくめるように、前田と李英子を離れさせた。李英子は微笑みをうかべたまま帰って行った。
前田が呉哲のアトリエに戻って、呉哲の書いた絵を見たりしていると、金美叔が戻って来た。
呉哲は飲み物を用意したあと、美叔と真剣に話しをし始めた。呉哲は少し酔っているようだった。しばらくすると「バシッ」という音が部屋に響いた。美叔が呉哲のほほを打ったのだった。前田はなんのことかわからず、知らぬふりをして画集をぱらぱらとめくっていた。
<下宿の一夜>
「今日は朴さんと食事をするから、一緒に行きましょう」美叔は前田の手をとって呉哲のアトリエを出た。美叔の態度はいつもの通り明るかった。ソウルは急ピッチで地下鉄の整備が進み、とても便利になった。スポンサーの名の入った名刺大の地下鉄路線図があちこちで配られている。それを持っていれば主要な場所は迷わずに行かれる。
ソウル大学の近くの焼き肉屋で朴清美は待っていた。店内はもうもうと煙って凄い活気だ。石炭と炭のあいのこのような黒いかけらをかんかんにおこし、テーブルにはめこまれたコンロにほうりこまれる。その上に丸い焼き肉鉄板をのせる。皿に肉が無造作にのっている。ここはブタを使っているので安い。焼き上がるとサニーレタスの葉に手早くくるみ口にほうばる。とうがらしみそを入れるのを忘れない。
真露という銘柄の焼酎が定番だ。
「どんどん食べてね。私のおごりだから。」ソウル大の研究室につとめている清美は、よく食べる。前田は肉は少なめにしてお変わり自由のサニーレタスをばりばり食べた。
真露がきいてきたせいか清美はよく笑った。美叔がお金をはらい店をでると、こんどは清美が喫茶店に誘う。誘われたら誘い返すのが礼儀なのだ。話しこんでいるうち夜も更けた。
「今夜は、清美の下宿に泊めてもらうわ。もう地下鉄もなくなったし。」美叔は席を立つと前田の手をとって言った。
「前田さんもどうぞ。美淑が一緒ならOKよ」前田が時計を見ると十二時になっていた。タクシーの基本料金で朴清美の下宿に着いた。前田が払おうとすると清美が前田の手をはらいのけた。
下宿といってもごく普通の門構えで、門の端にちょこっとでているひもを引っ張ると、門の鍵が開いた。いきなり白い犬がまとわりついてきたので前田は声を上げそうになった。
「おおやさんはもう寝てるから静かにね。」清美がささやき、玄関の鍵を開けて中へ入った。
前田は、若い女性の未知の部屋へ夜中に忍び込むことになったことで胸が高鳴った。清美の部屋のドアが閉められると同時に蛍光灯がついた。どうやら三人が寝られるかなといったスペースで、いろとりどりの衣類が掛かった衣装かけの影にふとんがたたんであった。
「明日の仕事に差し支えるといけないから早く寝ましょう。」歯を磨いてきた清美が、布団を整えた。前田は衣装かけの下にもぐり込むようにして寝た。
「ちょっと話しがあるの。」美叔がいつのまにか前田の耳元に近付いて言った。清美はもう寝息をたててている。
「私は今、死にたい。もう、つきあうのは止めましょう。」前田の目の前で火花が散ったように見えた。
「えっ、どうしたのきゅうに」
「理由は言いたくない。とにかくもう会いたくないの。」
「待ってよ、理由だけでも教えて」押し殺した声できいた。美叔の目から涙がこぼれているのがかすかに見えた。沈黙の後、
「あなたは李英子にセックスしたいといったそうね。呉哲が言ってたけど。」
「セックス、そんなこと、言ったことはないよ。だって大体、韓国語でセックスという言葉も知らないんだから言う訳がないよ。」
「セックスって言えば分かるよ。みんなが驚いていたらしいの。私は恥ずかしくてみんなにもう会えない。どうしたらいいかわからない。」美叔の肩が揺れて、すすり泣いた。
前田はそっと美叔の肩をだいた。
「本当に言ってないんだよ。信じて、」
美叔は、前田の手を払い除けずそのまま寝込んだのか沈黙が続いた。二人の寝息を聞きながら、前田はまんじりともしなかった。美叔が昼間呉哲を平手打ちしたのを思い出していた。
朝まどろんでいると下宿の奥さんの電話の呼び出しで起こされた。清美が玄関の電話口から戻ってくると高宮和男が今日ソウルに来ると告げた。美叔が午後仕事が早く終わるので空港へ迎えに行くことになった。前田も暇なのでつきあうことになった。清美はペタペタと顔中に塗りたくって信じられないほどの厚化粧で皆より先に仕事に出掛けた。
<再会>
空港の待合室で美叔と前田が待っていた。しばらくすると美叔がガラスごしに指さした。
「前田さんあの人ですよ。紺のジャンパー」出口からでてきたのはまじめそうな青年だった。
「韓国語を勉強中の前田時男です。」韓国式に前田は右手を出した。左手を右腕にそえるのが正式なのだ。
「高宮です。よろしく」反射的に握手をしながら高宮がおじぎをした。
「美叔さんお久しぶりです。元気でしたか。」
「よくいらっしゃいました。清美さんとは喫茶店で会うことになってます。行きましょう。」
「ホテルを決めていないんです。前田さんは今、どちらへ泊まっているんですか。」高宮がきいた。
「昨日は朴清美さんの下宿に泊まりました」
「二人でですか。」高宮の表情がこわばった。
「昨日初めて泊まったんです。金美叔さんも一緒でしたから。」
「そうですか」高宮はまだ何か聞きたそうなそぶりだったが、それきり口を開かなかった。
金美叔は疲れているらしくタクシーが走り出すと前の座席で居眠りをした。前田は運転手が行き先を間違えやしないかと心配だったが、タクシーは首尾よく待ち合わせの喫茶店に到着した。
美叔は電話をかけに電話ボックスへ行った。席につくとすぐ高宮はマイルドセブンのカートンをひっぱりだした。
「よかったらどうぞ。」前田は久々に日本のたばこを味わった。
「韓国ではまだ外国タバコがよろこばれますね。おみやげにはちょうどいいです。」
「それにしても今朝の電話で今日来るというのはずいぶん急ですね。」思い詰めているような表情の高宮に、前田は何かありそうな気がした。
「今回ソウルに来た理由はですね。」高宮はぼそりぼそりと話始めた。
「朴清美を日本に留学させようと思って来たんです。私が金を出せばきっと来ると思うんです。夏休みに来たとき、清美さんに韓国内をあちこち案内してもらったんですよ。そのとき彼女が韓国が好きなら韓国で一緒に住んだらどうかと誘われたんです。実際キムチが大好きだし、住んでもいいが今の仕事は続けて行きたい。だから、彼女のほうから来てもらえばいいんじゃないかと。」
「清美さんのことが好きなんですね。」悪い話ではないと前田は思った。
「いえ、好きというのともすこしちがうんです。」と言いながら高宮がさっと席をたった。
電話をかけに行っていた美叔が戻って来た。朴清美が一緒だった。
「よくいらっしゃいました。」清美はうれしそうに高宮の両手をとった。
「久し振りです。手紙受け取りました。」
「急にだったんで驚きました」
「なかなか休みが取れなくて、すぐに来たかったんですが。昨日急に休みが取れることになったんで、今朝早く航空会社へ行って手続きしたんです。」
「さっそくおいしいキムチのある店にいきましょう。」
伝統的な韓国料理を食べさせる店に行くことになった。
「清美さん留学の件はどうなっていますか。」高宮がきりだした。
「まだまだはっきりしませんよ。」
「ぼくの方でお金を出しますから、岡山へ来ませんか。」清美は前田を見た。
「とってもいい話しじゃありませんか。」前田は賛成した。
「それはよく考えてみないとわかりませんよ。」清美は美叔に助けを求めている風だったが、黙って聞いていた美叔は母の誕生日なので早く帰らないといけないからと、清美が引き止めるのをよそに先に帰った。
「今日は清美さんの下宿に泊めてもらってもいいでしょうか。もっと話したいことがあるんですよ。」高宮が言った。
「高宮さんが泊まるのなら、前田さんにも泊まって欲しいの。だって二人だけじゃなんだかおかしいでしょ。」清美はにこにこしながら前田の袖を引っ張って言った。
<思い違い>
清美の下宿のまわりはソウル大学生達の下宿がならんでいる。なかには予備校をかねて受験生を収用するアパートもある。バスを降りて両側に店が並ぶ路地を登った。途中で前田は目についた干し柿を買った。新聞を高宮が買った。清美は買い慣れた店で牛乳やパン、菓子を買った。振り向くと急な坂で町の灯が見えた。
部屋に入ると清美はお湯を沸かしに台所にたった。台所は共同なので、おおやと顔を合わせる。
「清美さん、あなたに電話があったよ。電話の横にメモをして置いたから」おおやの奥さんの甲高い声がて聞こえた。その後、小声でおおやが清美に何か言っている声がした。
「やばいですね、ソウル市内のロッテのハンバーガーから基準以上の大腸菌が見付かったらしいですよ。」前田が新聞記事を指さして高宮に言った。
「ほんとですか。衛生観念の問題ですね。同じ器での酒の回し飲みがあたり前のこの国では、意外とルーズなんじゃないですか。日本人には脅威ですね。A型肝炎も相当蔓延していて結構かかるって言いますね。キスなんかも気をつけたほうがいいですね」
「キスで肝炎がうつるんですか。」
「そりゃ、うつるでしょう。食器からもうつるくらいですか。」
「いやあ、気をつけているつもりねんですがね。酒を飲むとですね。気がゆるみますから。」
「ところで清美さんと二人だけで話す方がいいんじゃないですか。席を外しましょうか。本屋にでも行こうかと思って。」前田は本屋がまだ開いていたのを思い出した。
「今から本屋はないでしょう。前田さんは韓国語がよくわかるからいてもらった方がいいと清美さんも言うんです。ぼくは英語しか分からないから。」
清美はお茶と菓子をわきのテーブルの上に置き、ふとんを真ん中に出し、足と手をふとんにつっこんだ。オンドルになっているのだ。
「高宮さん手足を洗うんだったら、先にどうぞ」清美がタオルを差し出すと、高宮は、洗面所へたった。オンドルの練炭の熱でいくらか暖かいお湯が出る。
ドアが締まると同時に清美が口を開いた。
「ここも借りて、二年になるし、おおやから子供が大きくなって来たので出てほしいと言われていたのよ。今こうお客さんが多いと教育上よくないから、今月一杯で出てもらえないかって言うのよ。前田さんも下宿探したいって言ってたでしょう。今度一緒に探さない?」
「今月一杯って言うと、あと二〇日か。そりゃないよね。私が今いるところは知り合いの家だから安いけど遠すぎて通いきれないからね。でもこのあたりは高いんじゃない。敷金が高いんだよね。」
「だから、共同で借りて、半分づつ使うってのはどう。そんなことしたら美叔に怒られるかしら。美叔は前田さんのこと好きなんじゃないの?」
「そんなことはないよ。」美叔は一見やさしそうだが気が強い。先に美叔に相談してからでないと大変だ。
「美叔さんも、下宿したいって言ってるんだよ。親がいつもいるとうるさいからって」「いっそのこと三人一緒ってのはどう。」
「それもいいかもね。」
「おおやがね、再契約してもいいけど、不動産屋に相談したら、今の三倍が相場だと言うの。敷金を上げたいというのが本音なのよ。今は三十万円だから、新しい人が入ると九十万円になるの。利息がおおやの収入になるわけ。」
「それで、月々の家賃は管理費だけってわけなんだね。それにしてもひどいね。お金がないからなんとかしてほしいっていってねばったらいいんじゃないの。」
「そう言ったのよ。そうしたら日本人の友達が多いんだから、その人から借りたらいいって言うの。だから、頭に来て、すぐ他を探しに行きますって言っちゃった。」
「ほんと。そりゃ大変だ。私にも責任があるんだね。朝ここを出るとき、おおやの娘と顔を合わせたらあの人はだれなのと聞いていたもんね。」
ソウルの不動産投機熱はあがりっぱなしで、アパートやマンションの値段が倍になったりしている。敷金の利息を家賃に充当する方式のソウルでは、敷金も二倍、三倍に上がった。おおやは新しい契約をして収入増を計りたいのだろう。
「大変大変、トイレの水が流れないよ。」高宮が部屋にもどってくるなり小声で言った。
「もしかして、チリガミを流さなかった?」
「流したけど。」
「やっぱり」三人でシャワー兼用のトイレに行くと中は水びたし、おおやに見られたら格好が悪い。
「ソウルの下水は管が細いから、紙は流しちゃ駄目なんだよ。」清美は棒を突っ込んだりしてしばらくの間格闘した。
どことなくはしゃいでる清美とは対称的に高宮はうつむきかげんだった。
「清美さん、さっきの留学の話し、悪くないんじゃないの」前田がしびれを切らして口火を切った。
「ぼくは、まじめに考えて、つまりですね、清美さんと結婚を前提でつきあいたい。」 意外な展開にめんくらったのは、前田だけではなかった。清美はお茶をこぼした。
<結婚話し>
「私は、まだまだやりたいことがあるから、結婚はできません」
「いや、結婚をしたいというんじゃなくて、本気で清美さんのことを考えているという意味なんです。結婚を望まないのなら、それでもいいんです。」高宮は留学を望んでいるはずの清美の以外な反応にとまどっている。
「でも、」
「やりたいことをやらしてくれるなら結婚も悪くないんじゃないの。いろいろなスタイルの結婚がかんがえられるんじゃない。」前田が口をはさんだ。高宮のまじめさが伝わってきて応援したくなった。
「だって結婚はいやなのよ。まだよく意味が分からないの。」
「日本に留学したいとあれほど言っていたじゃありませんか。ぼくは本気で考えて岡山の日本語学校への留学の準備をしたんです。」
「留学は日本だけではないのよ。アメリカだって、イギリスだって人気が高いのよ。」
「そうだね、韓国では日本にたいする評価はまだまだだから。過去の戦争のこともあるし。」前田は、韓国の老人たちが根強く日本への恨みをもっていることに思いをはせた。美叔の兄もアメリカへ留学している。嫌いな国の筆頭に日本をあげる若者も多い。
「あ、いけない、呉哲に電話するの忘れてた。」前田の言葉に清美があわてて玄関の電話口へ立って行った。
「高宮さんが前回ソウルに来たとき、朴清美が韓国で一緒に暮らしたらと言ったんでしたね。」
「そうです。ずっと慶州、太田、原州、などを一緒に回ってですね。」前田は先程、清美が前田に一緒に部屋を借りようと話したのを思い出していた。どうも両者の一緒にという意味が違うようなのだ。高宮に同情した。
「もう少し、彼女の気持ちを確かめる必要がありそうですね。」
清美は電話の横のメモを見て、電話すべきかどうか迷った。黄浩仁からの伝言と電話番号が記されていた。ダイアルを回すとホテルのフロントが出たが、そのまま受話器を置いた。
黄浩仁は清美の大学時代の友達で、今は太田で医師をしている。ソウルに出て来たときに電話があり、久しぶりに会ったら、いきなりプロポーズされた。一度体を許したが、その後美叔は大学の研究室での仕事が決まって、仕事を選んだ。それ以来黄浩仁からソウルに出て来る度に電話がある。
セックスはその時が初めてだったが、少しもいい感じはなかった。結婚を全面に出されると、清美は抵抗がある。今、人類学の研究がおもしろくてとても家庭に入る気にはなれないのだ。
気を取り直して呉哲に電話をした。
明日からの週末は清美は休みである。一緒に自然学校の漢先生の農場へ行く相談がまとまり、明日呉哲を案内役にして行くことになった。
清美は部屋にもどるとさっきまでの話はどこへやら明るく告げた。
「あした自然学校の漢先生のところへ行けることになったわ。もうソウルは見るところがないからちょうどよかった。呉さんが案内してくれるので、呉さんと九時にバスターミナルの前で待ち合わせ。ロッテワールドの前よ」
「ロッテワールドはまだ行ったことがない。」前田がいうと美叔も
「わたしもよ」とこたえて笑った。
高宮は疲れがどっと出て、猛烈に眠くなった。
「あの、実は、前日までかたずけなきゃならない仕事があったんでとても眠いんです。」
「じゃ、寝る用意しましょ」美叔が昨日のとおりにふとんをしいた。
高宮は言葉どうり横になると、とたんにいびきをかいて寝入った。
「前田さん、いろいろなタイプの結婚があるってどいうこと。」
「いやいや、仕事と両立できる結婚もあるんじゃないかなと。」
「高宮さんはどうしてそんなに思い詰めているのかしら。」清美は前田に高宮の真意を韓国語で聞くのだが、前田にもよく分からないのである。
「清美さんは、高宮さんをどう思ってるの?。」
「友達としてつきあってきたから、愛情とか結婚とかそういう問題じゃないわ。留学の費用を出してもらうのが条件みたいな結婚なんて考えられないわ。」
「まあ、そりゃそうだろうね。あした、高宮さんにそのあたりのことをよく聞いて見るよ。」
「あああ、高宮さん体が大きいから私たちの寝るところがなくなっちゃった。私がさそっちゃったんだから前田さん、ここに寝てください。」
「清美さんはどこへ寝るの?」
「他にはないわね。じゃ、一緒でもいいかしら」
「ぼくは、構いませんけど。」前田は清美のぬくもりを感じながら気持よくてすぐ寝入った。
<山の家>
バスがなかなか来なかった。運悪く、がまんしていた高宮がトイレに入ったときに運悪くバスがきた。前田はトイレに走って行って高宮を呼んだ。高宮は「けつを拭かずにでてきちゃった」と言いながらでてきた。
バスを降りるとそかは相当な田舎である。店が一軒、食堂が一軒あるだけだ。食料を買込んで歩き始めた。農場までの道は山道で石がごろごろしている。ところどころ雪も残っている。前田は一番後ろを歩いていたが、足を滑らして切り株で足をくじいた。すねから血がにじんでいる。清美が走り寄って、自分のタオルでほうたいし、肩を貸して歩き始めた。高宮と呉哲は荷物を担いだ。
前田は清美の介抱に照れながらも、ひとつのマフラーを二人で巻いたりしながら登って行った。急に視界が開けて一軒屋が見えた。急な斜面が畑になっていて、鶏が放し飼いになっている。
丁度泊まっていた人が帰るところだった。呉哲の知り合いだ。今は漢先生はここにはいない、山向こうの自宅にいるという。この家は離農した農家を合宿所として買った物で、その資金は日本人が出したらしい。漢先生は別の家を手に入れて引っ越したらしいのだ。
呉哲がまきをとりに裏山へしょいこをしょってでかけた。清美が食事の準備にかかる。高宮と前田は家のまわりを見学する。蜜蜂の箱があった。大きな栗の木の下に竹で縁台がくんであった。
「ここで夏に自然学校の合宿をしたんですよ。ちょっとすわりませんか。」高宮はなつかしそうに栗の木をなでると縁台に腰をかけ谷をみおろした。呉哲が木を切るなたの音がこだましてきそうなほどしずかである。
「高宮さんは清美が好きなんですね?。」
「そうなんですが、本当のところ、まだわからないところもあるんです。結婚してもいいというのはうそじゃないんです。」
「あのね、韓国人の女性のくどき方はとてもしつこくて強引らしいですよね。一度すきになったらとことんおいかけるんだそうですね。」
「人それぞれじゃないですか。」
「でもね、こっちからはっきり好きだって言った方がいいんじゃないですか。」
「前田さんも清美と結構親しいようですがどうなんですか。」
前田の出現が清美にどういう影響を与えているか高宮は心配になった。
「私の場合はね、清美のね。幸せを願っているだけですよ。」前田はかっこよすぎたかなと黙った。
「食事の手伝いをしましょう。」
二人は家にもどり、前田は清美の手伝いに台所へ消えた。高宮は縁側に座り、物思いに耽った。
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